小松さんが「米朝落語全集だより」第4巻(1981.07.10、創元社発行)に書いた 解説から |
「学兄」としての米朝師 ―― 一つの一方的思い入れ ―― 桂米朝師と、はじめて親しくつきあうようになったのは、昭和39年の秋ごろ からだった。 それまでは、ラジオで噺をきいた事があるぐらいだったが、まだ健在だったこ ろの、三遊亭百生、先代桂春団治、林家染丸といった人たちの、派手におかしい 芸とならべてきくと、地味で、えらくきっちりした口跡の人だな、という印象が つよかった。ラジオの仕事を一緒にはじめるまでは、米朝師の高座を見た事はほ とんどなかったように思う。当時、阪神間に住んでいた関係で、どうしても寄席 というと、北の花月などが多くなり、南には間遠になる。そのころ米朝さんは、 まだ千土地興業に所属していたのではないかと思う。 ラジオ番組は、今の聴取者からの投書構成ものの走りで、「題名の無い番組」 という他愛のないものだったが、はじめて見ると妙に気があって、乗りに乗って 4年半もつづいた。つきあってみると、芸人衆というより商家の人のような折り 目正しい性格に加えて、さすが神職家に生まれて大東文化塾に学んだ正岡容門下 第1号というだけあって、芸に対する博識と見識の深さには驚かされ、敬服もし て、以後この道に関しては、兄事する形で今日に及んでいる。 |