小松さんの「こちら関西<戦後編>」(1995.12.15、文藝春秋社発行)に収録さ
れている対談「サンケイビル43年の歴史」から

サンケイビル43年の歴史

 大阪の街がまだ戦災の跡を残していた昭和27年七月十八日、桜橋にサンケイ
ビル(地上九階、地下一階)が竣工した。以来、トレンディーな情報発信のス
ポットとして歩んできた四十三年の歴史を、小松左京がサンケイ企画の吉鹿徳之
司社長と語り合った。

 小松:サンケイビルは僕にとっては、“社会のふるさと”みたいな場所。大学
を出て失業状態のときに産経新聞にいた友人を訪ねたのがきっかけで、よく出入
りするようになった。雑誌評やテレビ評などの仕事も、このビルでのいろんな人
との出会いから広がっていったんです。

 吉鹿:当初から単に貸館だけではなく、何かやれ! という方針で、正月は
ずっと自主公演を続けています。桂米朝さんの落語の正月興行は47年からで
す。

 小松:僕が米朝さんと初めて顔を合わせたのもサンケイビル。39年からラジ
オ大阪で「題名のない番組」を一緒に始めます。確か“ホール落語”の形態も、
大阪のサンケイホールがルーツですよね。

 吉鹿:そうです。39年に産経新聞が「なにわ芸術祭」を始めるにあたり、「
上方落語名人会」を企画したんですが、当時は上方落語のドン底時代。米朝さん
にはその以前から、機関誌の『月刊四季』に小咄を書いてもらっていたので、入
場無料にして全力で人を集めますから、出演者をそろえてくださいとお願いした
んです。

 小松:独演会なればこそ、「地獄八景亡者戯」などの大ネタもできたわけだ。
当時は寄席でも落語の独演会なんてやらせてくれないのに、いきなり大ホールで
始めたんだから衝撃的な出来事だった。独演会はその後、米朝一門の枝雀、ざこ
ば、南光……と次々に広がっていく。