「小松左京マガジン」第3巻(2001.07.27、イオ発行)の「上方大衆芸能裏面史 〈戦後篇〉」(澤田隆治さん、米朝さん、小松さんの鼎談)から |
編集部 米朝さんは早くからラジオでDJをなさっていたそうですね。 小松 一緒にやっていたラジオ大阪の「題なし(題名のない番組)」は、昭和 39年のオリンピックの後や。 米朝 その前に昭和28年NHKの「歌のショーウィンドー」で、小咄や音楽 を織り込んだ番組をやっていたんや。 編集部 朝日放送との専属契約をなさっていたこともあったとか。 米朝 松本さんに頼まれて、昭和33年から数年のことです。松本昇三さんに 頼まれたら、そうそうむげにもでけん。その後毎日放送の「なんでもか けましょう」でリクエストはがきを読みながら番組をすすめる、という 事をやるようになった。当時としては、最初だったんじゃないかな。 小松 その後が「題なし」か。 米朝 KBS(京都放送・当時近畿放送)の「ゴールデンリクエスト」も昭和 39年から始まっていた。 小松 とにかく水曜日の夜11時からの生放送や。それで僕が北の新地で飲ん じゃ、本番を忘れる。乗ったタクシーのラジオで聞きなれた声が「あの デブ、どこいってけつかんねん。えらいこっちゃ」っていってる(笑)。 米朝 最後に飛び込んできて、「桂米朝、菊地美智子」 小松 「小松左京でした」と一言。 米朝 一言だけ間に合うたんや(笑)。 みんな投書のレベルは高かったな。もう忘れてしもうたけど、1つだけ 短いの覚えてる。「障子破れてさんがあり」って(笑)。 編集部 放送の力って大きいですね。いまでも「題なし」きいてファンになりま したと、コマケンに入会したり、小松左京マガジンの会員になってくだ さっているのですよ。 |