小松さんが「上方落語 桂米朝コレクション1 四季折々」(2002.09.10、筑摩
書房発行)に書いた解説から

 僕と米朝師――いやいつもの通り米(べい)さんと呼ばせてもらおう――米さ
んに出会ったのは、1959年だったと思う。当時の僕は、開局間もないラジオ
大阪の番組「いとし・こいしの新聞展望」で夢路いとし・喜味こいしのニュース
漫才の台本を書き始めたばかりだった。小説は書いていたが、まだSF作家では
なく、ラジオすらない我が家で、妻のためにささやかな娯楽のつもりで習作を書
いている状態だった。ラジオ大阪のあった大阪・梅田の産経会館には、「大阪産
経新聞」「大阪新聞」「ラジオ大阪」が入り、3階には当時関西でも最大規模の
ホールであった「サンケイホール」があったから、若い芸人や作家のタマゴたち
が吹きだまりのようにたむろしていた。
 その産経会館で米さんと出会ったのである。どういうきっかけであったかは思
い出せないが、第一印象は「まるで学者みたいな人」だった。
 SF作家になってからも、米さんと僕の交流は途切れることなく続いた。64
年には、ラジオ大阪で「題名のない番組」という深夜番組を米さんと僕のコンビ
でやった。いいかげんな題名で、スポンサーもなかなかつかないような番組だっ
たが、どういうわけかリスナーには好評で、高校生くらいの若者から山のように
投稿が来た。番組が終了してからもずっと覚えてくれている人がたくさんいて、
ある時など、大蔵省(当時)の官僚から「学生時代は“題なし”の常連投稿者で
した」と声をかけられてびっくりしたことがある。SF作家の堀晃さんやかんべ
むさしさんも常連投稿者だった。僕の方は、言いたい放題好きなことをしゃべっ
て、時には番組に遅刻さえしたのだから、人気の素は米さんの知的な話題にあふ
れた語りだったのである。