小松さんの著作・新潮新書176「SF魂」(2006.07.20、新潮社発行)の
「第2章『SF界のブルドーザー』と呼ばれた頃」から

 米朝師匠とラジオ出演
 ルポやったり万国博を研究したりと64年は忙しい年だったが、それだけでは
終わらなかった。この年の10月から、ラジオ大阪で桂米朝師匠と一緒に「題名
のない番組」という番組をやることになってしまったのだ。
 SFを書き始めてからもラジオ大阪では構成の仕事を単発でやっていた。その
時に、米朝さんとも何度かご一緒した。それで米朝さんの番組に飛び入りで出て
いるうちに、「題名のない番組」でレギュラー出演することになってしまった。
 この番組は、いわば東京オリンピック(10月10日〜24日)のおかげで始
まったようなもの。9月まではオリンピック前売り便乗企画のようなものが目白
押しだったのだが、番組改編期にパタッとなくなってしまった。なにしろ10月
はオリンピック中継がメインになるわけだから。それで、オマケみたいな形でな
んとなく始まった。
 水曜日午後11時から30分の生放送。最初は構成も何もなくて、内容も決
まっていなかった。番組名もしばらくは募集していたほどで、結局いいのが来な
かったから、「題名のない番組」(通称「題なし」)という仮題のまま。当時の
深夜放送はクラシックの音楽番組が多かったから、それを壊そうという意識だけ
はあった。そのうち次第にリスナーの投稿を中心に作るという形が定着して、そ
れから人気番組になっていった。
 米朝さんと僕と局アナの菊地美智子(旧姓・中島)さんとの3人が、大阪弁で
掛け合うというスタイルだったが、僕は両親が関東の人間だから、いわば大阪弁
と標準語のバイリンガル。よそで真面目な話をする時は標準語になってしまう。
すると、「この間はNHKで標準語で喋っとったぞ、裏切り者!」と手紙が来
る。
 一度、ひどい遅刻をしたことがあって、その時の反響もすごかった。夜の11
時の番組だから、飲んでから駆けつけるということもたまにあった。ところがそ
の日は、北新地で飲んでいて番組を忘れてしまい、そのままタクシーで帰ろうと
していた。そしたらタクシーのラジオから、米朝さんの声が聞こえてくる。「あ
の煙ブタ、まだ番組に来よらん。どこ行ってるねん」。慌ててその車で駆けつけ
て、終了間際に飛び込んで、「出演は桂米朝、菊地美智子……小松左京でした」
と何とか間に合った。翌日から、「あれでギャラもらったんか」という手紙が
どっと来た。反省して遅刻せずにやっていたら、「小松左京は最近遅刻せんから
おもろない。もと真面目にやれ」なんていうのが来る。細かいところをよく聞か
れていたし、マニアックなファンが多かった。
 投稿もハチャメチャSFに通じるようなパロディの傑作や川柳が続々と来る。
その水準は非常に高かった。徒然草や方丈記などの古典のパロディもあれば、共
産党宣言や五輪書をもじったものもあった。「国破れて山河在り 城春にして草
木深し」という杜甫の「春望」のパロディで、「貧乏」というのがあった。「障
子破れて桟があり 蜘蛛の巣はってシケモクふかし」という調子で、あれは傑作
だった。
 投稿者はどうやら関西の進学校の高校生たちが多かったようで、番組が終わっ
てだいぶ経ってから大蔵省に行った時、あるキャリアが「僕は『題なし』に2回
採用されました」と嬉しそうに言う。するとその1年先輩が「俺は3回採用され
た」と威張ってる。ラジオ大阪は中波だったが、深夜になると電離層が降りてく
るから、短波みたいに遠くまで届く。能登半島とか新潟などの北陸、九州や北海
道からも投稿がよく来ていた。
 「題なし」は4年続いて、その後も京都放送で米朝さんの番組によく乱入して
いたから、結局米朝さんとのラジオ放談は15年くらい続いただろうか。今でも
「『題なし』は面白かったですね」と言われることがけっこうあるし、SF作家
でも堀晃君やかんべむさし君などは学生時代に聞いていてくれたらしい。
 僕にとっては、ダンテやドストエフスキーなどの外国文学と同じように、落語
や喜劇映画から得たものも大きい。シリアスな議論と笑い――SFはその両方を
やれるから居心地がよかったのだと思う。人類とその文明の意味を考える一方
で、そんな深刻さを笑いとばす。今から思えば単にオッチョコチョイなだけとい
う気もするが、万博の研究と「題なし」を同時にやっていたのも、いかにも僕ら
しいのではないか。