小松さんへのインタービュー記事・ラクゴロク「落語とSFの意外な関係」
(2006.08.11、asahi.com)から

 ――確か米朝師匠とラジオ番組やってはりましたよね。

 昭和34(59)年からラジオ大阪で「いとし・こいしの新聞展望」の台本書
きをやってたんで、米朝さんと初めてあったのは、産経会館やったと思う。追っ
かけで楽屋にちょくちょくおじゃまするようになって、一緒に飲みに行ったりも
するようにもなってきてな、いろんな話で盛り上がってたんや。そしたらそこに
おったラジオ大阪のスタッフが、2人の話が面白いと言うんで番組作ろうって話
になった。でもなかなかタイトルが決まらんかったんでな、それは番組が始まっ
てから公募して決めようってことになったんや。それで当時「題名のない音楽
会」って番組があったんで、それをちょっと拝借して「題名のない番組」ってタ
イトルでとりあえずスタートした。そしたら3回ぐらいやった頃かな、スポン
サーに「もういいかげん題名決めてくれ」と言われた。でもそれほどええタイト
ルも送られて来んかったし、「もうこのままでええか」ということで正式に「題
名のない番組」に決まった。昭和39(64)年から4年半ほどやったかな。

 ――反響はどないでしたか?

 リスナーから葉書もらってフリートークする、いわゆるディスクジョッキーみ
たいなんがまだおらへん時代にそんな番組始めたんや。それと当時はまだ深夜放
送なんてなかったから、夜の11時から放送して聞いてくれる人なんかおんのか
なと思ってた。けど、ふたを開けてみたらぎょうさん葉書が送られて来た。関西
はもちろん、あの頃、ラジオ大阪が1380キロサイクルでね、短波に近いもん
やから電波がよう飛んでね、東京とか九州とか日本のあちこちから葉書が来よん
ねや。今度は学生のリスナーが増えすぎて心配になった。しかも、大阪の北野高
校とか天王寺高校とか東京の進学校とかの生徒がこんな時間帯にね、一番受験勉
強やらないかん時にね、この放送聞いてたら日本の未来を危うくするんじゃない
かと思てね、当時米朝さんと心配してた。

 ところがそれから20年くらいたったある時ね、SFについて話してくれと大
蔵省から呼ばれたことがあったんや。で、東京に行ったら大蔵省やからね、いか
にもキャリアらしい人が車で迎えに来てくれた。車に乗ったらその中の1人が
「僕、『題なし』のファンやったんです。葉書も2回採用されたんですよ」て言
いよった。そしたらその横に乗ってた彼の先輩がね、「お前はたかが2回じゃな
いか。俺は3回採用されたんだぞ」って自慢しとった。僕らのラジオを聞いてた
奴が、大蔵省のエリートになっとったんや。しかも、「投書が採用されたことを
誇りに思ってる」言うてた。これはうれしかったな。