小松さんが日経新聞に連載した「私の履歴書」と、「小松左京マガジン」に連載
した「小松左京自作を語る」とに加筆してまとめた「小松左京自伝 ―実存を求
めて―」
(2008.02.20発行)から


「第I部 人生を語る/第4章 小松左京の誕生」から

 日本全体が高度経済成長を謳歌した「黄金の60年代」を私は突っ走ってい
た。活動の場は文壇ではなくマスコミだ。漫才の台本を書いていたラジオ大阪
(OBC)は産経新聞社のビルの隣りにあって、産経ホールで落語を聴くのが楽
しみだった。桂米朝さんの「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむ
れ)」に驚嘆してしびれ、師匠の「追っかけ」を始めた。
 その米朝さんと一緒にOBCでトーク番組をやることになって大喜びした。昭
和39年(1964年)10月にスタートした「題名のない番組」である。


「第I部 人生を語る/第5章 万博プロデューサー」から

 30代後半の、まさに働き盛りである。とにかく忙しかった。短編や中編、
エッセイ、評論、ルポなども手がけた。今と違ってバリバリ書けた。「マージャ
ンを半チャン休んだ間に短編を書き上げた」。そんな伝説もあって、よく覚えて
いないけれども、それぐらいのことはできたと思う。
 桂米朝師匠と始めたラジオの「題名のない番組」は好評のうちに続いていた。
米朝師匠が昭和42年に関西テレビの朝のワイドショー「ハイ!土曜です」のメ
イン司会に起用されると、「追っかけ」の私はスタジオをのぞきに出かけた。そ
うこうしているうちに師匠に「出まへんか?」と誘われ、お調子者の「うかれ」
精神を発揮して出演したのが、いつの間にかレギュラーに名を連ねてしまった。


「第II部 自作を語る/第10章 芸道小説」から

――米朝さんとのお仕事はラジオ番組が最初なんですね。
小松 単発番組を何本かして、その後は1964年10月から「題名のない番
組」で週1回を4年半。それから関西テレビが67年から「ハイ!土曜です」と
いうワイドショーに米朝さんを起用すると、僕は彼の追っかけだったから、スタ
ジオをのぞきに行って、そしたら米朝さんが「ちょっと出て来なはれ」と。