文藝別冊[追悼]小松左京(2011.11.30、河出書房書房新社発行)の「追悼エッ
セイ」から

小松つぁんとの想い出
桂米朝

 いつごろ顔見知りになったんかは全然憶えてないんですが、小松つぁんと一緒
に仕事をするようになったんは、昭和39年10月にラジオ大阪で始まった『題
名のない番組』が最初です。私が司会を受け持つその番組の1回目の収録に彼が
飛び入り出演し、大いに盛り上がりました。ディレクターもえらい喜んで、翌週
からレギュラー出演することになったんです。ほどなく、近畿放送(KBS京
都)でも『ゴールデン・リクエスト』という二人のラジオ番組が始まりました。
 2本ともリスナーのハガキをもとに我々が好き放題言うて行く構成でね。いわ
ゆるフリートーク番組のはしりやったんやないかな。まあ、その時の小松つぁん
の博学ぶりには畏れ入りました。私も古典芸能や文学に関しては少しばかり蘊蓄
も持ち合わせてはおりましたが、彼の知識の幅の広さには驚くばかり! 古典・
文学はもとより、天文学、地質学、物理学、人類学、民族学……。皇室典範の話
から、卑猥なお座敷唄まで、何でも来いです。お固い学者の集まりであればある
ほど、嬉々として艶っぽい話を喋り出す人でした。



同書の「追悼トーク」から

●小松左京追悼トーク
巨星、宇宙に逝く[大阪編]
(2011年9月19日、なんば紅鶴にて開催されたLive Wire主催トークライ
ブより再構成)

――おそるべき記憶力と構築力と洞察力、というか
かんべ しかも学問全体を洒落にして遊べるというね。まさに京大型なんです
よ。
堀 梅棹忠夫さんの自宅で毎週サロンが開かれていて、そこに参加したりして、
京大人文研との人脈が広がっていったんですよね。ラジオで米朝師匠と『題名の
ない番組』をやってたころ。そのころやたら番組に遅刻するというのも、しょっ
ちゅう京都に行って、がやがややってて忘れてしまって、「あ、今日出番だ」と
思い出して飛んでくるパターンが多かった、と聞きましたね。



●小松左京追悼トーク
知の旅人・小松左京のノンフィクションを語る

瀬名 ここで小松さんの当時の状況を振り返りますと、64年、初の長編『日本
アパッチ族』や『復活の日』を出された年に、「万国博を考える会」が発足し、
米朝師匠とのラジオ番組「題名のない番組」も始まる。そして60年代後半には
いると、小松さんの活動の場が大きく広がっていきます。



同書の「小松左京年譜」から

小松左京年譜

●1964年(昭和39年) 33歳
10月、ラジオ大阪で桂米朝師匠との「題名のない番組」始まる。