完全読本 さよなら小松左京(2011.11.30、徳間書店発行)の座談会「桂米朝×
小松左京×澤田隆治・上方大衆芸能裏面史〈戦後篇〉」から
 注:内容は、「小松左京マガジン」第3巻(2001.07.27、イオ発行)の「上方
大衆芸能裏面史〈戦後篇〉」
と同じ。

編集部 米朝さんは早くからラジオでDJをなさっていたそうですね。
小松  一緒にやっていたラジオ大阪の「題なし(題名のない番組)」は、昭和
    39年のオリンピックの後や。
米朝  その前に昭和28年NHKの「歌のショーウィンドー」で、小咄や音楽
    を織り込んだ番組をやっていたんや。
編集部 朝日放送との専属契約をなさっていたこともあったとか。
米朝  松本さんに頼まれて、昭和33年から数年のことです。松本昇三さんに
    頼まれたら、そうそうむげにもでけん。その後毎日放送の「なんでもか
    けましょう」でリクエストはがきを読みながら番組をすすめる、という
    事をやるようになった。当時としては、最初だったんじゃないかな。
小松  その後が「題なし」か。
米朝  KBS(京都放送・当時近畿放送)の「ゴールデンリクエスト」も昭和
    39年から始まっていた。
小松  とにかく水曜日の夜11時からの生放送や。それで僕が北の新地で飲ん
    じゃ、本番を忘れる。乗ったタクシーのラジオで聞きなれた声が「あの
    デブ、どこいってけつかんねん。えらいこっちゃ」っていってる(笑)。
米朝  最後に飛び込んできて、「桂米朝、菊地美智子」
小松  「小松左京でした」と一言。
米朝  一言だけ間に合うたんや(笑)。
    みんな投書のレベルは高かったな。もう忘れてしもうたけど、1つだけ
    短いの覚えてる。「障子破れてさんがあり」って(笑)。
編集部 放送の力って大きいですね。いまでも「題なし」きいてファンになりま
    したと、コマケンに入会したり、小松左京マガジンの会員になってくだ
    さっているのですよ。



とり・みきさんが同書に書いたコラム「小松左京 on TV」から

63年には梅棹忠夫サロンに参加。また64年からは桂米朝とのラジオ大阪「題
名のない番組」がスタート、知的な放送タレントとしてのキャラも確立する。こ
の京大人文研グループと、米朝一門という二つの人脈は、創作だけでなくテレビ
やイベントの大きな核ともなっていく。



同書の「小松左京年表」〈文学・科学・社会〉から

1964年
●10月 ラジオ大阪で桂米朝と「題名のない番組」をはじめる。



同書の「関西の小松左 小松左京の関西」(かんべむさし、堀晃の対談)から

かんべ サンケイパーラーというのは、当時、サンケイホールの3階にあった
パーラーで、新聞記者や原稿を寄せる人間が、よく利用してた。
堀  あのサンケイビルの上には、アメリカ文化センターが入っていて、「サイ
エンティフィック・アメリカン」などの科学雑誌があったので、『復活の日』の
執筆のためにかなり通われていたそうですね。
――その頃、米朝師匠とも知り合ったんですね。
堀  そうです。ラジオの「題名のない番組」でですね。
かんべ 小松さんと米朝師匠が初めて会いはったのは、小松さんが米朝師匠の「
地獄八景亡者戯」を聞きに行って、こんなスケールの大きい話があるのかと感動
して、楽屋に会いにいきはったのが最初なんだそうです。米朝師匠はインテリで
学者みたいな人ですから、小松さんは米朝師匠のことを学兄って呼んではりまし
た。
――(題なしは)どういう番組だったんですか?
かんべ 水曜日の夜の11時からの30分番組なんですけどね、お二人プラス女
性アナウンサーの会話と、リスナーからの投稿で構成された番組です。
堀  あの文化的影響はたいへんなもので、予想外のところに広がっているんで
すよ。
かんべ リスナーには、ハイレベルの大学を受けるような、よく勉強してる受験
生も多かった。小松さんが古典文学のパロディーを作ると、翌週、それを上まわ
るパロディーがどっと送られてくる。すごかったのは番組の最終回のとき、「終
戦の詔勅」の全文に、米朝・小松と番組のことを盛り込んだパロディーが投稿さ
れたんですね。私はそれを小松左京マガジンで読ませてもらったんですけど、も
のすごくうまくて、プロのレベルでしたね。
堀  小松さんが東京に行ったら、政府の中枢にいる人たちが、自分の投稿は何
度採用されたかかという自慢話をしていたそうですよ。
――京都大学で得た京大人文研とのつながりというのは、どういうものだったん
でしょう。
堀  題名のない番組をやっていた頃の小松さんの名物というと、遅刻だったん
です。当時、梅棹忠夫先生の勉強会に出るようになって、そちらが面白すぎて、
生放送の番組なのに大阪に戻るのがぎりぎりになっていたんですよ。
かんべ 小松さんが本当にリラックスして、なんの遠慮も警戒もなしに上機嫌で
しゃべってはったのは、三種類の人たちと一緒のときでしたね。ひとつはSF作
家クラブの仲間たち、ひとつは米朝一門、そして京大人文研とかの学者の方々で
す。



同書の「「万博と日本のSF 小松左京のみた〈未来〉と〈現実〉」から

 1964年といえば、小松は3月に書下ろし処女長編『日本アパッチ族』(光
文社カッパ・ノベルス)を出版していた。この時期、「SFマガジン」の福島正
実は小松左京に書下ろしSF長編を依頼しており、他社に先を越されたことに
ショックを受けた。小松は光文社からの依頼が先だったことを告げ、早川書房の
ためには本格的なSFを書下ろすと約束した。そうして書かれたのが〈日本SF
シリーズ〉の第1巻として刊行された『復活の日』だった。この年は他にも短編
集を出し、長編を連載し、ラジオ大阪の番組『題名のない番組』で桂米朝と共に
メインを務めるなど、小松は多忙を極めていた。