「米寿 桂 米朝」(2012.08.01、ブリーゼアーツ発行)の「桂米朝 その軌跡」 から |
昭和39年(1964年)39歳 10月 ラジオ大阪「題名のない番組」開始。小松左京との名コンビはラジオ 大阪の名物となり、リスナーのレベルの高さは今も語り草となってい る(〜昭和41年4月)。 昭和43年(1968年)43歳 4月 ラジオ大阪「題名のない番組」終了。 |
同書の「ラジオ大阪OBC『題名のない番組』同窓会」から 出演:桂 米朝 菊地美智子(ラジオ大阪、元アナウンサー) 本田粛正 (「題なし」担当ディレクター) 小佐田定雄(落語作家・元リスナー) 西林利裕 (大阪芸術大学短期大学部講師・元リスナー) |
昭和40年代前半の高校生を夢中にさせた、ひとつのラジオ番組があった。OB C「題名のない番組」がそれである。リスナーの投書を中心に桂米朝、小松左京 が話をすすめていく。なにしろこの二人は当代きっての博覧強記、知識、教養の 権化ともいうべき存在。話は古今東西の文明、歴史をかけめぐり、とどまるとこ ろを知らない。お相手は同局一の美人アナ菊地美智子。 文学的ともいえるパロディがつぎつぎと生まれて行った。その頃のリスナー、小 佐田定雄、西林利裕が加わって懐旧の話に花を咲かせる。 米朝 最初から番組の「題名なんか決めんでも、ええやないか」というのがあり ましたなぁ〜 菊地 実は、放送日の当日まで題名は決まらなかったのです。そのまま、「題な し」で行こうということになったと、思います。 西林 テーマ音楽の「ジャジャジャジャ〜ン(ベートーベンの交響曲第5番)」 や出囃子は? 本田 発想は小松さんでした。 西林 あの番組は生だったんですか。 菊地 途中、何回かは録音でしたが、基本は生でした。 西林 番組に米朝+小松左京+菊地美智子を出演しようとした意図とは? 本田 米朝さんは年齢的に小松さんより上なので、米朝さんと菊地さんとはそれ 以前『これがケチだ』という番組をやっていました。小松先生はラジオ大 阪開局(1958年)以来のお付き合いでした。『いとしこいしの新聞展 望』からでした。毎朝のレギュラーの番組の台本を書いておられました。 西林 そんな人気の番組が4年半ぐらいで終わったのはどうしてなのでしょう? 本田 それは、最初のスポンサーの参天製薬のイメージが強すぎたので、その後 のスポンサーが付かなかったのです。短期には2社ほど付きましたが…。 西林 1回にどのくらいの投稿があったのですか? 本田 毎週、葉書が高さで20センチ以上ありました。 西林 それで、番組での採用枚数は? 本田 15〜16通ぐらいでした。多くの葉書の中から私がより分けて、残った いい物を米朝さんに渡していました。 小佐田 リスナーはどの世代の? 本田 高校生やったね〜。レベルが高かったね〜。 菊地 本田さんは記録とかを残したりしない人でした。番組で何を言ってもOK でした。言いたい放題でした。今回のこの録音(*1)は番組の終わりかけな ので、まだましですが、最初はもっと言いたい放題でした。特に小松さん は言いたい放題でした。スポンサーはだから付かなかったんです(笑)。 本田 米朝さんは1時間ほど前ぐらいに来ておられて、サンケイパーラーという 喫茶店で下読みをしておられた。 米朝 あれを読むのがたのしみでねぇ〜。 菊地 ようできてたなぁ〜と。 本田 米朝さんを素晴らしい! 凄い! と思うのは、読みながら師匠は考えるん ですね。中には「内容がいいのに、面白くないですね」と言うと、師匠は 「それを、オモロー読むんや」とおっしゃっていました。 米朝 ふふぅふ〜 小佐田 米朝師匠に受けて頂いたら、投稿したリスナーはそれは嬉しいですよ。 菊地 (2人とも)古典から古典以外でも…全てに反応できるんですね。古典も 良く読んでおられたんでは…。リスナーがどんどんエスカレートしてレベ ルがあがっていったんだと思います。師匠と小松先生の掛け合いが良かっ た。 本田 この2人がいなかったら、この番組はなかったでしょうね。 菊地 小松さんの発想は凄かったですからね〜。 小佐田 ほんまに守備範囲が広いお人でしたからね。万葉集や古事記から最近の 作品まで読んでおられましたから。 菊地 小松さんは米朝さんを凄く好きで、尊敬をしておられた。師匠のおっしゃ る事に、パッと発想が閃くんですね。それを楽しんでおられたようです。 これが番組を楽しくしたのではないでしょうか。単に博識ではなく、楽し い会話が弾けていました。いつも楽しんでやっていました。 菊地 師匠と小松さん2人で「わしら、悪いことしてんのと、ちゃうやろか? 若いもんに…」と、スタジオの隅で話しておられたのを憶えています。 「ひょっとしたら、毒を与えているのかなぁ〜?」と…。 小佐田 小松先生は以前、私の顔を見て「すまんこと、したなぁ〜」と言われて いました。責任を感じておられたのしょうか? 本田 米朝師匠…。悪い影響、与えてますよ(笑)。 米朝 ……(笑) 西林 採用者にはなにかプレゼントはあったのですか? 菊地 シャープペンシル。 小佐田 そのペンシルはよく壊れましたね。また新しいのをもらうために、葉書 を書かんとあかんかった。シャープペンシルの前は目薬では? 本田 大学サンテ目薬『サンテ・ド・ゥー』でした。スポンサーなんで…。 小佐田 その後、スポンサーの梅田スポーツガーデンのプレゼントで入場券とい うのもありました。 小佐田 『おもらい』というのもありました。 菊地 それは、番組のスポンサーになって貰うためにリスナーが3円を送る…、 スポンサーが見つからないから、それなら皆で募金をしようという事で始 まりました。出演者1人1円で3人だから3円です。実際に3円封筒に入 れて送られてきました。 ほんまに、いろんな物を送って来ました。『題なし』は投書の質の高さで 有名ですが、『贈り物』にも、もっと注目してもいいのでは…。それだけ でもリストにしておけば良かったです。 小佐田 スタジオは「便スタ」やったんですか? 菊地 「便スタ」とは元々便所やったところを、スタジオに改造したので、そう 呼んでいたのです。そうしたらその「便スタ」をネタに2人がいろんな事 を言うんです。「便スタに閉じこめられていますー」とか。狭いんです。 小佐田 高村光太郎の『智恵子抄』のパロディで『美智子抄』というのが来まし た。 ミチコはOBCにスタジオがないという、 ほんとのスタジオが見たいという。 私は驚いてOBCを見る。 …… 米朝 あっ はっ はっ 小佐田 これも常連の中平高志さんの作です。こんなんばっかり考えていた人で す。 本田 ラジオ大阪で放送を大阪弁で喋った最初が菊地アナウンサー。彼女が最初 なんです。 菊地 当時は先輩に呼ばれて怒られました。米朝さんとやるのに標準語だったら 白けるので、いつも話している言葉で…。 米朝 ずいぶん前の事やなぁ〜。 菊地 そのながれで米朝+小松+菊地ということになったみたいです。 小佐田 黄金トリオです! 菊地 4年半という短い(放送)期間が長く感じるのは、皆が楽しんでいたから と、思います。小松さんは本当に番組が楽しそうでした。あとで、飲みに 行くのもですが…。 本田 番組で酒を飲むのも初めてですわ。誰も怒りませんでした。そこがラジオ 大阪や! ええ会社やった。 小佐田 番組から出前をとったこと…ありませんでした? 本田 シュウマイ! 米朝 わぁはっはっ 本田 サンケイパーラーが閉まっているから…シュウマイを注文しました。『焼 売太楼』の桜橋店から持ってきて貰った。 本田 酒を飲んでも、3人とも大人やし…。心配はしませんでした。それに皆、 お酒強かったです。 菊地 私は当時、お酒はほとんど飲めませんでした。番組終了後、毎回飲みに連 れていかれ、少しずつきたえられましたが、お酒よりお二人の話に酔って いたような気がします。 本田 著作権で誰も文句を言ってこなかったのは、不思議やねぇ〜。 小佐田 あほらしくてだれも、文句を言えんかったんでしょう(笑)。 *1 この書籍「米寿 桂 米朝」には、付録として以下のCDとDVDが添付され ている。 ・1968.10.02放送の「題なし」を録音したCD。 今回の対談中に、この録音が再生された。 ・関西テレビ「奥さまスタジオ ハイ!土曜日です」の同窓会のDVD。 2012.05.09、旧関西テレビ本社スタジオにて収録。 |