板垣死すとも自由は死せず
※ 1881年(明治14年)、板垣退助は、国会開設の詔が出されたのを機に
自由党を結成して党首となったが、全国を遊説してまわった。1882年
(明治15年)4月、党勢拡大のため岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷した
ときの言葉。
板垣は襲われた後、起き上がり出血しながら「吾死するとも自由は死せん」
と言ったが、「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることに
なった。
なお、この言葉は板垣の秘書が事件現場で叫んだものとする説などもある。