舞 姫 森 鴎外 石炭をば早(は)や積み果てつ。中等室の卓(つくえ)のほとりはいと静に て、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも徒(いたずら)なり。今宵は夜 毎にこゝに集ひ来る骨牌(カルタ)仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余 一人のみなれば。 五年前(いつとせまへ)の事なりしが、平生(ひごろ)の望足りて、洋行の官 命を蒙(こうむ)り、このセイゴンの港まで来(こ)し頃は、目に見るもの、耳 に聞くもの、一つとして新ならぬはなく、筆に任せて書き記しつる紀行文日ごと に幾千言をかなしけむ、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしか ど、今日になりておもへば、穉(をさな)き思想、身の程知らぬ放言、さらぬも 尋常(よのつね)の動植金石、さては風俗などをさへ珍しげにしるしゝを、心あ る人はいかにか見けむ。こたびは途に上りしとき、日記(にき)ものせむとて買 ひし冊子もまだ白紙のまゝなるは、独逸にて物学びせし間(ま)に、一種の「ニ ル、アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。 ※ 森鴎外が、医学を学ぶためドイツへ留学した時の体験を下敷きにして執筆さ れた短編小説。1890年(明治23年)、「国民之友」に発表。 主人公の手記の形をとり、その体験を綴る。 |