那須与一 平家物語、第十一巻 ころは二月十八日酉の刻ばかりのことなるに、をりふし北風激しう吹きければ、 磯打つ波も高かりけり。舟は揺り上げ揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらず、ひ らめいたり。沖には平家、舟を一面に並べて見物す。陸(くが)には源氏、轡( くつばみ)を並べてこれを見る。いづれもいづれも我ならずといふことなし。 与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光の権現、宇 都宮、那須の湯泉(ゆぜん)大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させて賜ばせ たまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に再び面(おもて )を向かふべからず。いま一度本国へ帰さんとおぼしめさば、この矢はづさせた まふな」と、心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱って、扇 も射よげにこそなったりけれ。 与一、鏑(かぶら)を取って番(つが)ひ、よっぴいてひょうと放つ。小兵とい ふでう、十二束三伏せ、弓は強し、鏑(かぶら)は浦響くほどに長鳴りして、誤 たず扇の要木は、一寸ばかりおいて、ひいふっとぞ射切ったる。 鏑(かぶら)は海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。春風に一揉み二揉みも まれて、海へさっとぞ散ったりける。皆紅の扇の、夕日の輝くに、白波の上に漂 ひ、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、沖には平家、船端(ふなばた)をたたいてかん じたり。陸(くが)には源氏、箙(えびら)をたたいて、どよめきけり。 ※ 那須 与一(なす の よいち、1169年(嘉応元年)?〜没年不詳)は、 平安時代末期の武将。系図上は那須氏二代当主と伝えられる。本名は宗隆あ るいは宗高(「平家物語」)と紹介されることも多い。 なお、同時代の史料には那須与一の名前はなく、「平家物語」や「源平盛衰 記」に伝えられているだけである。このため、学問的には与一の実在は立証 されていない。 |