吾輩は猫である 夏目漱石 吾輩は猫である。名前はまだ無い。 どこで生れたかとんと見当(けんとう)がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした 所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間と いうものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どう あく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕(つかま)えて 煮にて食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐 しいとも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げら れた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて 書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始(みはじめ)であろう。この 時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきは ずの顔がつるつるしてまるで薬缶(やかん)だ。その後、猫にもだいぶ逢ったが こんな片輪には一度も出会(でく)わした事がない。のみならず顔の真中があま りに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。どうも咽 (む)せぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草というものである事はようや くこの頃知った。 ※ 夏目漱石による長編小説。1905年(明治38年)1月に発表され、好評 のため翌年8月まで継続された。 |